飴細工の歴史

食べて台(喜ぶ)と書く「飴」をハサミを使って細工することを最初に考えた人はすごいですね。

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■「飴細工」という呼び方、あるいは誰もがイメージする「和鋏を使って動物などの様々な形に細工する」という形がいつ頃から始まり定着したのでしょう?

日本の伝統的な飴細工の始まりは、ある頃から「飴の鳥」と呼ばれるようになるもので、昔はまだ「飴細工」という呼び名ではなく「飴の鳥」という呼び方で広く通っていました。

飴売りの口上で「さぁさぁ子供衆、買うたり買うたり、飴の鳥じゃ飴の鳥…」と浄瑠璃で演じられたのが延享三年(1746年)。「引き出して小鍋立する飴細工」と川柳に読まれたのが寛政十二年(1800年)。「昔は烏の形が専らだった。今も飴の鳥といって飴細工の総称としている」と守貞漫稿に書かれたのが嘉永六年(1853年)というように、次第に「飴細工」という呼び方も使われるようになりましたが、昭和の初め頃まではまだ「飴の鳥」という呼び名も地方により残っていたようです。 


■ではこの「飴の鳥」が始まったのはいつ頃か?江戸中期にはあったが…

それ以前にはとても貴重だった飴が国内でもつくられるようになり、江戸の平和な暮らしが続いた文化文政の頃におそらく今の形式が出来上がったと思われます。その頃の呼び名を「飴の鳥」といい、他の飴売り(「唐人飴売り」などで細工はしないもの)と違い、少なくとも「飴を動物などの形に細工するもの」というスタイルが始まっていたようです。ただしまだ「飴細工」と呼ばれていたかは定かではありません。おそらくその後に「吹き飴」という呼び方もされていたと思われます。「吹き飴」になると、普通の御菓子の飴とだいぶ区別できます。今でも「吹き飴」という呼び方は一部で使われています。「飴細工」の呼び方はこの「吹き飴」にとって代わって使われ始め、今ではすっかり一般的な呼び方となりました。ですから、いつ誰が始めたのか分かりませんが「飴を和鋏を使って主に動物などの形に細工するもの」というスタイルがいつしか生まれ、呼び方は時代と共に、そして地方によっても変わってきたのでしょう。

■和鋏の使用と飴細工の広がり

和はさみ

江戸時代前期には千歳飴など様々な飴をつくる飴師がいましたが、飴細工師の登場にはなんといっても和鋏が必要です。和鋏の量産は、天秤ふいごの考案により「たたら製鉄法」が確立し、鉄の生産量が飛躍的に増えた江戸時代中期以降と考えられますから、飴細工の原型である「飴の鳥」は江戸時代前期頃には始まっていて、江戸時代中期にこの和鋏の量産と歩を合わせて「飴細工」として日本全国に広まったと考えられます。ですから今のスタイルになってからざっくり言って300年の歴史と言えるでしょうか。(※もっと広い意味で普通の御菓子のひねり飴なども飴細工ととらえるならば別ですが、ここでは「飴を和鋏を使って主に動物などの形に細工するもの」を飴細工と言っています)

昔の飴職人は、一日に一斗缶にして二缶の水飴をすべて売り物の飴に仕上げることができて、一人前の職人と認められました。この一斗缶二缶の水飴を、朝早くから火にかけて煮詰めては冷まし、また冷め切らないうちに練りに練って、最後は小さな飴玉などに仕上げるのはたいへんな重労働でした。歳をとり、この重労働がやがてできなくなると、飴を様々に嗜好を凝らして細工をする、飴細工を街中へ売り歩いたのです。(この画は明治初期の横浜の様子を描いたものだそうです)。その性質など、飴のことを知り尽くしていた職人だからこそ、こうした飴細工ができたのでしょう。
 

チャールズ・ワーグマン筆 『飴売』 1877年
チャールズ・ワーグマン 『飴売』 1877年 (模写)
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昔はこの画のように葦の先に飴を付け、膨らませて主に鳥などを作っていました。戦後の古い写真を見ても、鳥などの動物を作っていたようです。またこの画に見られるように、特に子供たちに人気があり、様々な形の飴が出来上がるまで熱心に見ているところは、時代を超えて、今とまったく変わりがありません。今では大人に懐かしがられる飴細工ですが、小学生も「懐かしい」などと言うので可笑しいものです。